もっと楽しく観れる!映画レビュー

もっと楽しく観れる!映画レビュー
※本文で一部結末に触れています。

二十一世紀の英雄たちの物語
佐々木俊尚(ジャーナリスト)

作家・ジャーナリスト。 TABI LABO創業メンバー。議論コミュニティLIFE MAKERS主宰。AnyTimes顧問。TOKYO FM「TIMELINE」MC。フジテレビ・ホウドウキョク「あしたのコンパス」アンカー。テレビ東京「未来世紀ジパング」コメンテーター。

主人公の桐山零や島田八段、後藤九段は、ギリシャ神話の英雄たちのように戦う。将棋盤という小さいけれど、無限に広い戦場の上で。

縦三六センチ、横三三センチの将棋盤は、この映画の中では別のものに見えてくる。それはまるで、神々が縦横無尽に飛びまわる広大な宇宙空間のようだ。

将棋は、囲碁やチェスと同じように勝ち負けがはっきりしている。ゲーム理論には、「二人零和有限確定完全情報ゲーム」という難しい用語がある。ふたりのうちひとりが勝てば、相手は必ず負ける。そしてゲームの空間の中でこの先何が起きるのかは、完全に先読みが可能で、偶然に左右される余地はない。そういう冷酷きまわりないドライな戦場なのだ。それはまるで、運命を司る女神たちに命運を握られ、過去と現在、未来を司られて、あらかじめ定められた運命の中で戦いを強いられている神話の英雄たちのようでもある。

英雄たちは、アクション映画のように派手に立ち回るのではない。ふたりの英雄が将棋盤をはさんで向き合い、静寂につつまれながら、ひたすら思考をめぐらせる。扇子を取り出し、開いて閉じる。ペットボトルのお茶を飲む。お菓子に手を伸ばし、頬張る。どれも日常的で何げないしぐさだ。しかし本作の英雄たちのそうしたしぐさには、うねるような思考が籠められ、時に荒れ狂う感情さえほとばしる。スクリーンの上の画面はほとんど動きがないのに、英雄たちのちょっとした表情、ちょっとした身体の動きから、激しい葛藤が染み出るように溢れてくる。

将棋の英雄たちの躍動はとても内在的で、抽象的だ。将棋盤は目に見える小さな平面にすぎないけれど、彼らがほんとうに戦っている舞台は、私たちの生きているこの平和な物理空間とは別の場所、どこか宇宙の果ての嵐が吹きすさぶような大地の上だ。

そういう人間のあずかり知れないような世界が垣間見えるからこそ、本作の英雄たちの戦いはよりいっそう神話的に見えてくるのだろう。

古来、ギリシャ神話でも北欧神話でも、あるいは日本の記紀神話でも、つねに英雄は孤独だった。将棋の英雄たちもみな孤独と向き合い、孤独に苦しむ。桐山零はがらんと空虚な自室で、ひとり黙考するだけだ。高熱を出して寝込んだときも、誰にも助けを求めない。自力で生きていこうとする。そしてまた後藤九段は、愛してくれる者を振り捨てて、戦いに向き合おうとする。

しかし零は、川本家の三姉妹と出会い、感情がふれ合うということの暖かさにとまどいながら、でも少しずつ喜びで心を浸していく。後藤九段にも、ささやかな転機が訪れる。

本作では男女の関係も描かれるけれども、それらは本質的には恋愛ではない。本作で描かれるのは、「仲間」だ。英雄たちの孤独と、英雄たちを支え、英雄たちもそれに応じて心を開いていく、そういう「仲間」たちの存在だ。「仲間」は時に家族のかたちをとり、時に近所の人であり、時に恋人であり、時にともに戦う棋士でもある。かけがえのない仲間がいることで、英雄たちは孤独を脱し、さらに成長していく。仲間がそばにいて、ともに食卓をかこみ、春になれば桜は咲き、四季をともに過ごし、そして英雄たちは再び、戦場へと戻っていく。

孤独を原動力に戦うのではなく、仲間の力で戦う。それはまさに、わたしたちがともに生きる共同体の意味が再び重要になってきている現代の生き方を、象徴している。これは、二十一世紀の英雄たちの物語なのだ。

大人の女性の胸を熱くする、ライオンのように激しい男たちの映画
杉嶋未来(ライター)

ライター。女性ファッション誌「In Red」「Steady.」「SPUR」や少女漫画誌「ココハナ」、グラビア誌、劇場用パンフレットなどで、映画レビューや俳優インタビュー、セレブゴシップの記事を執筆。企画・編集のムック「ぜんぶ! 海外ドラマ」がある。

壁ドンがなくても胸キュンできる!というか、壁ドンはそろそろ年齢的に気恥ずかしくなってきた大人の女性も、堂々とキュンキュンできる映画、それが『3月のライオン』だ。『るろうに剣心』シリーズや『秘密 THE TOP SECRET』など、大友啓史監督が描く男性キャラクターはいつも熱量があって、かっこいい。原作ものは、当然もともとのキャラクターの魅力ありきだが、役者の力量に寄るところも大きいのだなと、今作を見て改めて実感した。『3月のライオン』は、完全に主人公、桐山零と化した神木隆之介を筆頭に、男性キャスト陣がかっこいい男像を熱演し、心から痺れさせる。各キャスト、見せ場がそれぞれ用意され、表の顔と裏の顔のギャップでもだえさせるのだ。

まず、零は、穏やかな可愛い顔をしている17歳の少年棋士だが、実際はまるでライオンのように、師匠である義理の父親さえも打ち負かしてしまう。心の中には勝負師としての激しい気性を宿している。一方で、「自分が誰からも必要とされていないんじゃないか」という孤独感に震えるような一面も。人の愛情をどう受け止めて、どう返していいのかわからない、とても不器用な少年だ。対局中の勝負士の顔と、家族のように心を通わせていく川本家で見せる無邪気な顔のギャップがたまらない。

その零と静かなる決闘の世界を繰り広げる棋士たちは、大人の男の魅力をこれでもかと発揮し、とても色っぽい。佐々木蔵之介演じる島田八段は、盤をはさんだときはギラついた目をするのに、家にいるときの気の抜けてちょっと枯れた雰囲気。原作ファンの人気が高いのも納得の、名キャラクターを、佐々木蔵之介が人間味たっぷりに好演している。伊藤英明演じる後藤九段は、妻がありながら零の義姉・香子と不倫していて、敵意むき出しの零とバチバチ火花を散らせる。零に立ちはだかるヒールっぽさもよいが、後編で後藤の新しい側面が見えて、ある意味一番ギャップのあるキャラクターといえる。さらに、島田八段と後藤九段の見せ場の一つに、それぞれおやつをむさぼり食いながらガンを飛ばしあう対局シーンがある。原作にはない映画オリジナルなのだが、このときの二人はかっこいいけど、どこかかわいい。そして、宗谷冬司名人。加瀬亮が、線が細くも、ほかの棋士を圧倒する天才としての存在感を説得力を持って演じている。宗谷名人は、後編での零との対局が真骨頂であり、夢のように強い将棋にシビれること必至。個人的には、今をときめく高橋一生演じる零の担任教師、林田先生と、染谷将太が特殊メイクで演じる二海堂の〝キュート〟な人柄には癒された。気を抜くとふさぎ込みそうになる零を、軽口を叩きながらしっかり励ます林田先生、自身は難病を抱え思うように将棋を指せないが、零を叱咤激する二海堂。二人の零を思う気持ちが、真っ直ぐで心地よい。

彼ら男性キャストの真摯なかっこよさに触れて何度も胸が高鳴りつつ、家族の愛を知らない零のヒリヒリとした孤独にも寄り添った。零が大切な人を増やしていく中で人生を肯定し、「僕は将棋が好きだ」と思えるまでを描く成長物語に、自分でも驚くほど涙を流し続けていた。これはきっと、川本家の長女あかりの、「零をふくふくにしたい」という母性本能に思い切りシンクロしたに違いない。

静かに斬り結ぶ感情のスペクタクル
清水 節(映画評論家)

編集者・映画評論家・クリエイティブディレクター。映画.com、シネマトゥデイ、FLIX等で執筆。TOKYO FM「スカパー! 日曜シネマテーク」などに出演。著書に「いつかギラギラする日 角川春樹の映画革命」「新潮新書 スター・ウォーズ学」などがある。WOWOW「ノンフィクションW/撮影監督ハリー三村のヒロシマ」で国際エミー賞受賞。

実写化において、原作漫画のキャラクターの域を出ない映画は少なくないが、絶妙なキャストを配置した映画『3月のライオン』の中では、登場人物がしっかりと呼吸している。今という時代を生きる一人ひとりの人間として、彼らの存在が立ち上がり、繊細な人間関係が織りなす群像ドラマとして見応えは十分だ。これは、天涯孤独になって居場所を求めた少年・桐山零(神木隆之介)が、生きる手段として棋士の道を選び取ったことから始まる、闘う青春映画である。見せ場となる「対局」は、一見静的に見える。しかし、『るろうに剣心』三部作でフィジカルな闘いを追求した大友啓史監督は、座したままアクションを展開させるような、あふれんばかりの感情のスペクタクルとして成立させている。

対局は、ただ表情が映し出される正攻法。それぞれの人生を背負った棋士が、盤を挟んだ相手との間に激しく感情を行き交わす。人生の実時間と何十手も先を読む思考時間が盤上で交錯し、壮絶にして静かなる決闘が繰り広げられる。強い意志を内に秘めながらも「将棋しかなかった」零は、闘いを通して学び、自らに向き合い、やがて魂を解放していく。冒頭、零をこの道に引き入れた義父、幸田八段(豊川悦司)を破ったあとの描写は秀逸だ。暗い自室で独り盤に向き合う零が、ラジオから流れてきた息子による父親殺害事件のニュースを耳にする。精神的な父殺しを果たした零は、行いを指弾されたかのようにして身を硬直させる。敵意を剥き出しにする傲岸不遜な棋士、後藤九段(伊藤英明)は、零にとって邪悪な脅威。しかし病床に伏した後藤の妻の存在を知り、後藤の屈折した生き様を理解する。飄々とした古武士のような島田八段(佐々木蔵之介)は、胃痛に悶え苦しみながらも、相手の心の内を見透かし、包み込むようにして成長著しい零を静かに見守る。

身体を斬り合う真剣勝負ならば、敗者は血を流して倒れ、事切れる。だが対局の敗者は、数手先の負けを悟り、心を整理して「負けました」と自ら申告する。一方、対局の勝者はといえば、最後の最後まで読み誤ることがなきよう、極度の緊張によって激しく精神と肉体を消耗し、苦渋の表情に満ちている。将棋ならではの美学に裏打ちされた勝敗のコントラストを、大友演出は抜かりなく描く。ただし、プロ棋士の中でもラスボスといえる宗谷名人(加瀬亮)は、別格。彼こそは、零がプロフェッショナルの自覚を身に付けていく上で、運命的に出会う最強の棋士だ。原作では谷川浩司や羽生善治という永世名人をモデルにしたと言われる宗谷を、虚飾を削ぎ落とした加瀬が見事に体現し、映画の品格と到達点を決定づけている。感情的な揺らぎを一切見せず、明鏡止水の境地で臨む宗谷の対局は、勝ち負けをも超越する。彼と向き合えば、自らの心の弱さが暴かれ、本性をさらけ出してしまう様を、カメラは冷徹に捉える。かつて羽生善治はこう語った。「将棋には闘争心はあまり必要ないと思っている(略)相手を打ち負かそうなんて気持ちは、全然必要ない」。最良の一手を指して、相手の思考に委ね、マイナスの一手がもたらす均衡の崩壊を待つ。加瀬亮の存在感は、この枯山水のような内宇宙と化し、凄みさえ感じさせるのだ。

家族、師、ライバル。周囲と交わることで傷つき悲しみ、愛や優しさを知る零の表情は、前編と後編でがらりと変わる。疑似家族となる温かな川本家との交流は、脇道に逸れたエピソードに思えるが、彼の人間形成にとって大切な意味を帯びてくる。四季の変化の中で綴られる、少年の生理に貫かれた成長のドラマ。今どきのシネコンを席巻する現実逃避系の壁ドン・ロマンスが、甘すぎる砂糖菓子に感じるほど本作の味は苦いが、ここには目を背けてはならない普遍的な青春像がある。高みを目指して闘い続け、一歩ずつ階段を上る向上心がある。観る者は皆、零とともに闇を抜け出し、全身に光を浴びるだろう。

「身じろぎもしない宇宙」を司るもの
相田冬二(ライター/ノベライザー)

ライター/ノベライザー。「週刊金曜日」「シネマスクエア」「UOMO」などの雑誌、「T-SITE」「リアルサウンド」などのWeb、劇場パンフレットで映画評やインタビュー記事を執筆。映画やドラマのノベライズも手掛ける。通算19本目となる最新作は「嘘の戦争」(角川文庫)。

映画『3月のライオン』は前編、後編ともに言葉で出来ている。桐山零のモノローグが軸となり、それに呼応するように対局は対話の場となる。対話とは、自問自答でもあるが、相手の魂を「聴く」行為でもある。ひとりの棋士の気概、不安、葛藤、崩落、超克などが、あらゆる棋士たちの生命とポリフォニックに響きあう。対局は単に現前にいる相手とだけおこなわれるものではなく、これまで将棋の世界に足を踏み入れたすべての者たちとの共闘なのかもしれない。過酷だからこそ魅惑的な、言葉の森がそこにはある。

人間は発露する。言葉はそのための大きな拠りどころとなる。心のなかのつぶやきにしろ、他者に向けてのダイアローグにしろ、すべては人間が人間でいるための「よすが」だ。よろこびも、かなしみも、怒りも、浮かれ気分も、それを言葉に置き換えることで、人間は己が人間であることを知る。発露せずにはいられないのは人間の業でもあるが、人間らしさの証明でもある。この二部作は、そんな人間くささの堆積であり熟成である。

ひとりだけ言葉の森から距離を置く者がいる。大切なのは、彼がどんな場所に、どんなふうに立っているかという表層だ。極端な言い方をすれば、彼だけが内面=言葉に頼らず、表層=映像のみによって屹立している。加瀬亮という俳優の肉体があって、初めて成しえたことであろう。

映画『3月のライオン』は宗谷冬司の登場によって本格的に幕を開け、彼のある表情によって全編の幕を下ろす。とりわけ深い印象を刻むのは、前編の最後である。宗谷が振り返り、零のまなざしを感知したことを知らせるそのカットは、後編を予兆するものであり、その余韻に包まれたまま、わたしたちはこの宗谷に司られた物語を見届けることになる。

対局に現れるときはやや足早に、そこから去るときはややゆっくりと移動はするものの、宗谷は基本的に「身じろぎもしない宇宙」のなかに存在している。他のキャラクターたちが全員「躍動」していることと対照的で、彼だけが真空の世界に生きているように映る。つまり、宗谷だけが息をしていない。

確かに宗谷冬司には静謐なイメージがある。だが、言葉と対比されるものは静けさではなく、動かないことなのだということを加瀬亮はここで示している。

彼は喋らないわけではないし、喋れないわけでもない。前編では、対局を終えた島田開に対して、まるで使者のようにメッセージを告げたりもする。だが、はたしてあれは、わたしたちが考える言葉と同じものだったのか。こうした錯誤と転倒もまた、彼が動かないことから生まれている。

加瀬は、宗谷を「身じろぎもしない宇宙」に棲まさせるために、その歩行を精緻にかたちづくる。宗谷の歩行は、少年のようでも青年のようでも老人のようでもある。中年、つまり実年齢である瞬間が一度たりともない。ときに亡霊のようでもあるが、孤高や天才、神の子といった劇中の形容詞とは別種のなにかを加瀬は形成している。

ゆったりとした着物にもよるところが大きいが、宗谷の歩行中、何度かこの人には手がないのではないかと思えるときがあった。対局中も、この棋士は手で将棋を指しているわけではない、そんなふうに感じられた。手はある。だが「手」が見えない。だから零は宗谷の魂を「聴く」ことができないし、対局は対話として成立しない。

だが、つぶさに、宗谷の「不動」を見つめていると、どんな棋士にも、そして、わたしたちにも、人間が本気になったとき、このような真空状態がもたらされるのではないかと気づかされる。

宗谷は神ではない。人間なら誰しも経験するであろう一瞬一瞬を持続し、あたかも永続するかのように維持していることが非凡なだけなのだ。

それもまた人間。加瀬亮は浮遊感のある俳優だが、ここでは浮遊するのではなく、動かないことで、人間という器のぎりぎりの瀬戸際に立つことを体現している。

「君は将棋が好きか」
松本隆(作詞家)

1949年生まれ。20歳の時、「はっぴいえんど」を結成。解散後の73年からは作詞家に専念。作詞は2100曲を超え、シングルの総売上枚数はおよそ5千万枚、ヒットチャート1位を記録した楽曲は52曲を数える。第66回芸術選奨文部科学大臣賞(大衆芸能部門)を受賞。
最新作はつんく♂との初タッグとなる、クミコwith風街レビューのセカンドシングル「砂時計」。

羽海野チカさんとの出会いは2007年の「風街少年」「風街少女」というぼくのコンピレーション・アルバムの表紙絵をお願いした時だ。あれからもう10年か。その時に渋谷のカフェで対談したのだが、「次回作は?」と聞くと、「青年誌で将棋をテーマに」と答えられ、しばらくして連載が始まった。

将棋とは難しいテーマを選ぶんだなと、意外な気がしたが、12巻まで連載は進み、NHKでアニメ化され、実写映画の前後編と「歩のあゆみ」どころではなく飛天の勢いだから、あらためて彼女の才能に感嘆した。

映画の舞台は東京下町、月島の高層ビル街と運河である。ぼくの祖父の親族が八丁堀あたりの出で、母は六本木で心臓の手術を受けた後、DNAが騒いだのか隅田川に呼ばれたのか、前橋に帰らずに豊洲に住んでいる。

主人公の零が淋しげに運河沿いに歩くとき、ぼく自身の姿を彼に投影するのは容易だ。

零が居間の真ん中に将棋盤を置き、深夜孤独に練習しているときも、机と作詞に置き換えれば容易に自分になる。同時に机で作画する羽海野チカにも重なるのだろう。ぼくらはみんな、苦悩しながら成長してきた。まあ、あんな風に泣いたり叫んだりはしなかったが。

この映画で、何度「負けました」という言葉を聞いただろう。将棋のことは何も知らないが、負けた側が勝敗を宣言するスポーツはあまりない気がする。ある意味、敗者には過酷だなと思う。

ぼくの仕事だとあんな風にはっきりとした勝敗はない。毎週ヒットチャートの順位がでるが、負けたからといって誰にあやまる必要もない。

この映画の素敵なところは、主人公も苦悩するが、取り巻く周囲の人間たちもそれぞれが苦しみ悩み人生と戦っていることだ。その重層的な人の生き方の綾が、時間軸の変化をともない、なにか立体的な美しい模様を描き出している。

零にとってのゴールというのは、やはり宗谷冬司なんだろうな。あの和服の撫で肩の曲線、力の抜けた強さというのを加瀬亮が見事に演じていてものすごい存在感を醸し出していると思う。

ぼくが23才で作詞家になったとき、筒美京平という32才の天才作曲家が業界に君臨していて、会ってみたら撫で肩の優しそうな人だった。それもなんだか重なってしまう。

ちなみにぼくの45周年の「風街であひませう」の歌詞の朗読のCDで加瀬亮は「夏なんです」を、有村架純は「魔女」を読んでくれた。素晴らしい朗読だった。

「それからは夢中だった。頭の中で何かがどんどんつながっていく。まるで銀色に光る眩しい水が、隅々まで流れ込んでいくように」

これは宗谷名人に負けそうなときの零の独白。人間の中で才能が開花する瞬間というのはこんな感じだ。人生に勝敗はつきものだが、時として勝つときよりも敗北から学ぶことが多いものだ。

「歩から指を離した瞬間、指の表面が引き剥がされる感じ」

戦いに集中すると、周囲の喧騒など耳に入らない。金色の光に包まれて、穏やかな空気の中で、至福の時間が訪れる。

神木隆之介演じる零は、頭を叩いたあと、盤面に一条の光を見出し、指をくわえながらふるえる息で、と金を打ち、上目づかいに後藤を見る。大友監督はなんの説明もせず、繊細な事実を積み上げていくだけで、一連の心の動きを表現した。

最近ぼくは黒縁の眼鏡に変えた。グレイのダッフルコートも持っているが、もう季節的に無理かな。桐山零の影響かもしれない。

本当の男らしさとは、こういうことだ
佐藤忠男(映画評論家)

1930年生まれ。日本を代表する映画評論家で、アジア映画研究の先駆者。演劇、文学、教育の分野でも評論活動を行い、100冊を超える著書を出版。2011年から日本映画大学学長を務め、2017年に名誉学長就任。芸術選奨文部大臣賞受賞、紫綬褒章、フランス芸術文化勲章シュバリエ章受章。

神木隆之介の演じる桐山零という主人公の高校生が、なかなかいい奴で感心した。それで、この映画を好きになった。

男らしいと言っても、暴力的に恰好をつけるヒーローではない。むしろ柔和な方で、正しいことと間違ったこととの違いに敏感で、いい加減であることは自分で許せない。こういう倫理観をピシッと決めているんだなあ。こういう若者こそ本当に恰好いいと言うんだ。

中学生の時にもう、将棋のプロ棋士になっている。高校生であっても、収入も地位もひとかどの大人と対等である。自信を持ってふるまうのも当然かもしれない。しかし、彼は全然いばらないし、はしゃぎもしない。

彼は両親を事故で失っている。その時、彼を引き取り、将棋の指導も受け継いでくれたのが、父の親友だったプロ棋士だ。零はこの義父も負かしている。それどころかこの義父は、零に希望を託して自分の子供たちをプロにすることも諦める。それで、零は義父に申し訳ない思いでいっぱいで、自分からこの義父の家を出て去ってゆく。そして、ひとりでじっくり自分の生き方を考える。それがまた男らしい。恩義をわきまえ、自分で納得のできる生き方を、謙虚に明るく、一歩引く立場で考える。これが男だ、と私は思う。彼のその本当の男らしさを知る和菓子屋の3姉妹が、またかわいいったらない。